東海道本線で東京~京都間を行き来することは学生時代からよくやっていました。
しかし、青春18きっぷをつかえば2000円ちょっと、という安さをもってもおよそ9時間の行程というのは決してお気軽に臨めるものではありません。
そしてその長さを痛感し、旅人としての度量が試されるのが「静岡県」なのです。
ドーバー海峡を泳いで渡る人に例えてみましょう。フランス側から出発し、やがて背後にあった大陸側の岸辺の影は消え、その先にあるグレートブリテン島はまだ見えてこない…そんな感じ。
東京と京都のほぼ中間地点で、かつ駅数が多いということだけではありません。
強力な快速列車の不在。私はこの区間でほぼ例外なく、関西三都をむすぶ新快速のありがたさを思います。そしてことあるごとに至近に姿を見せる新幹線。高架の上を疾走する白い車体をみると、つくづく自分が「鈍行」で地面をなぞっていることを実感するのです。(もちろん普通電車も好きなのですが!)
前振りがいささか長くなりましたが、そのようにこれまでひたすら通過し続けてきた静岡県、その県庁所在地である静岡市と
静岡県立美術館に今回初めて訪れました。
JR草薙駅で下車。ここから県立美術館まではバスで向かいました。
この美術館で見てみたかったのは「ロダン館」そして企画展「
狩野派の世界-2009-」です。

狩野派のはじまりには諸説ありますが、そのうちのひとつに伊豆の出であるというものがあります。また、江戸時代には幕府とのつながりをもちながら画壇におけるその地位を維持し続けた狩野派はその直轄地である駿府でも絵画制作を行っており、静岡県立美術館では狩野派の資料を数多く収集してきたそうです。
こちらの美術館ではこれまで何回か狩野派の展覧会を開催してきましたが、今回の展覧会は過去の展覧会で公開してきた狩野派関連の資料に、新たに新収蔵の作品を加えた構成となっています。カタログに関しては、は今回の新資料のみが掲載された軽めのものが作られていました。そこで、出品作品が多く掲載されている過去の展覧会のカタログもあわせて求めようとしたところすでに在庫切れとのこと、これは残念でした。
展示は4つの章に分けられています。出品作品は展示替えもふくめのべ65点。屏風などは一対で1点とカウントされますから、実際には数字以上のボリュームです。
第1章は「室町から桃山へ」とし、元信や永徳周辺の作品を中心とした構成。それに続く章には探幽をはじめ17世紀に活躍した絵師達による作品が展示されています。室町の枯れた味わい、そして桃山の力強い趣と比べて見てみると、探幽の作品からは余白を活かしながら適度に垢抜けている感じがよく伝わってきます。
第2章では久隅守景と英一蝶の作品も出ていました。狩野派から出て、風俗画を能くした絵師として同時に語られることが多いこの二人の作品を同時に見たのはおそらく初めて。この二人の絵師、前者は農村の、後者は遊里の人々を活き活きと描いた、というように描く対象の違いとともに言及されることが多く、また自分自身もそのように捉えてきましたが、実際に作品を見てみることにより、新たに自分なりの視点でこの二人の絵師の違いを捉えることができました。その「違い」とは「地面との関係」…具体的な言葉で表現するならば「地べた」に対して「浮遊」と言ってもいいかもしれません。守景の画中の人物は地面と睦まじく接し、それとは対照的に一蝶作品に描かれる人物はどこか重力の小さい場所にいるような感じがするのです。
このほかこの章で興味深かったのは守景による「鍋冠祭図押絵貼屏風」。
作品の解説パネルに書いてあることが非常に刺激的な内容でして…鍋冠祭とは近江の国に伝わるお祭だそうですが、この祭では女性が鍋を頭にかぶるのですがその数は関係した男性の数であるということなのです。この作品には二人の女性が描かれていて、一人はいくつかの鍋を被っており、もうひとりは鍋を被らず。ちなみにこの二人には容姿の点で優劣がつけられています。
さまざまな研究領域の対象となりそうな作品です。
第3章では京狩野にスポットをあてています。
京狩野といえば、私としてはやはり山雪をカリスマ的な存在に位置づけたいのですが、ここであえて言及したいのは永岳という絵師。永岳については最近その研究論文を耳にすることがあり、この展覧会で作品を見ることをひそかに楽しみにしていたのです。
永岳の活動期は19世紀、私が特に時間をかけて鑑賞したのは「三十六歌仙歌意図屏風」です。この6曲1双屏風では画面の大部分が金雲で満たされており、その隙間ごとに人物が登場する小さな場面が見えます。また、その場面の側にはそれぞれ歌が書かれた矩形の区画が設けられています。この作品では金雲に取り囲まれた各場面がとても小さく、私はその「隙間」に見える人々の様子を「のぞき」見ているような感覚を覚えました。
ここで気が付いたのはこの作品特有の場面表現とそこに添えられた「和歌」という表現形式との関係性。この作品の主題となっている和歌というものの性質について少し考えてみますと、その多くは他の文学ジャンルにくらべ「少ない字数」で「私的な感覚・感情の発露」を主題とするものが多く、すなわち限定された字数によって内面世界を公開するものということができます。再びこの作品の「絵画」に立ち返ってみると、鑑賞者は小さく区切られた場面をのぞきみることによりそこから情報を得ることができるのですが、実はこの感覚は和歌の限られた字数のなかからよみ手の内面を推し量るような感覚とよく似ているように思えます。つまりこの作品は「プライベートなものを限定的に明らかにする」という点において歌と絵が足並みを揃えている作品ということができるのではないでしょうか。
最後の章では明治に至るまでの江戸狩野が紹介されています。
その終盤では芳崖、雅邦が登場。この二人の人物がいたかどうかで狩野派の300年というものに対する我々のまなざしは大きく違っていたと思うのですが、この作家たちが描いた作品をこの展覧会の文脈とあわせて見てみると、それはまるで狩野派と近代がぶつかり合う瞬間に発せられた光芒のようでした。
つづいて、ロダン館へ。
第一印象は「明るい!」、もっとも、その豪華なつくりには若干引いてしまうくらいなのですが…。アーモンド形のプランを持つ空間には天上から光がふりそそぎ、黒光りするブロンズ像の肌を照らしています。そしてその光はとても柔らかい。
これまでロダンといえば、国立西洋美術館で見ることが多かったのですが、それに比べてこちらでは作品の「見やすさ」というものをはっきりと感じました。
(もちろん、国立西洋美術館の環境も素晴らしいです)
独自の様式を確立してからのロダンの作品は、その肉体に苦悩を詰め込んだような彫刻が大く、重いです。展示されているのはブロンズ像が殆どですが、彫刻ではどちらかというとモデリングよりもカービングが好きな私は、大理石による「フギット・アモール」にひきつけられました。
「去り行く愛」と訳されるこの作品は、背中合わせで重なりあう男女の像。必死で女性の上半身にしがみつく男性、いくらなんでもそんなに強く掴んだらいけないと思ってしまうような激しい状況です。子どもでも知っているロダンの最も有名な作品「考える人」はなにやらひとりで崇高な思索をうちに抱いているようですが、「フギット・アモール」からはふたりの人間がいるゆえに生じる苦悩というものを感じました。
美術館を出る頃には風景も夕暮れ色、電車で静岡駅まで出で近海ものの魚と地酒を楽しみました。帰京のため利用しましたのは、この夏に出会い、すっかり気に入ってしまった7時30分発の東京行きです。