<   2010年 02月 ( 20 )   > この月の画像一覧

悔やまれるのはパウダールームでお化粧直しをしているうちに、その列車が着いてしまったこと。朝6時をまわって間もなくの上野駅。

16番線には「能登」-来月廃止となる夜行急行が入線していました。仕事が休みの日の朝、上野駅に行ったのはこの電車を見るため。先頭部分とヘッドマークの支持体の形が個性的です。

a0061947_17455589.jpg


上野駅の地平ホームは頭端式なので列車を正面から見ることができます。この車両の場合は外観上の最大の特徴であるボンネット型が分かりづらくなってしまうのですが、しかし、この日はヘッドマークとその背後にある明け方の空の色が呼応しており、そのサイト・スペシフィックな感じもまた良いと思いました。

a0061947_1746848.jpg


「能登」の到着後10分あまり、14番線にはこれも金沢からの寝台夜行「北陸」がすべり込んできました(どうやら自分は「北陸」と「能登」の到着時刻を間違えていたようです)。

a0061947_17462473.jpg


「北陸」は出発時に比して鉄ヲタさんたちの姿は少なく、まだ撮影しやすいようでした(それでも30人程はいたかと)。一仕事終えたあとの列車には、出発前のそれを包む昂揚感とは違った雰囲気があり、人によって好みはそれぞれかもしれませんが。

ところで、ここに列車が到着する際には「うえのぉー、うえのぉー」という語尾を長く伸ばすアナウンスが流れるのですが、私はこれに終着駅としての貫禄を感じます。そして、頭端式の線路が並ぶこの場所はすこしヨーロッパの駅に似ていて、その構造せいか、このアナウンスが一層美しく響くような気がします。
東大卒外務省勤務の美女と日経新聞本社ビルで待ち合わせる。

と書いてみるとこちらもなんだかキャリアウーマンの仲間入りをしたような気分になりますが、実際のところは、元芸術学専攻・目下霞ヶ関でバイト中の友とのギャラリーまわりです。この夜は日経新聞本社2階のSPACE NIOで展示中の「ニュートーキョーコンテンポラリーズ3」と、田町のPhoto Gallery Internationalで初日を迎えた伊藤義彦さんの個展「時のなか」を訪れました。

「ニュートーキョーコンテンポラリーズ3」は映像上映およびショーケースとショーウィンドーをつかった展示がありました。このうち特にユニークだったのはショーウィンドーを使った「蒐集家図鑑」展というこころみ。その趣旨は、架空コレクションルームという設定で展示がされているものです。

a0061947_17273255.jpg


こちらで注目した作家は臼井良平さんのシリーズ「forgotten Liquid」。これは、置き去りにされた液体容器-たとえばペットボトルなどが写された写真作品です。日常のなかでそのようなものを見れば「ゴミ」として不快感を覚えてしまいそうなものですが、この作品からはそれを感じないのが不思議。私が特に気に入ったのは、森を背景とし、500mlのパック飲料がふたつ、まるで寄り添うように並んでいるところを写した作品。パックの色は片方は青、もう片方は赤で、その組み合わせからまるでお雛様のように見えます。この作品は欲しいと思いました。毎年3月にリビングに飾る作品として。

その後、京浜東北線で田町駅まで移動、徒歩でPhoto Gallery Internationalに向かいました。

こちらで作品を発表されている伊藤義彦さんは、2003年夏に国立西洋美術館で実施されたワークショップ「幻視写真」で講師をつとめられ、私は当時インターンとしてそのお手伝いをさせていただいたのです。

a0061947_17275277.jpg


伊藤さんは連続して撮影した写真をそれぞれちぎって貼り合せることにより画面の中に同じ被写体が幾度も登場する、つまりひとつの画面の中で複数の時間が組み合わされた作品を制作されています。今回は上野動物園のハシビロコウを主人公としたシリーズ等が展示されていました。ハシビロコウはコウノトリのなかまで、大きなくちばしが特徴です。写真のなかにはハシビロコウの姿や顔が反復して登場し、わずかにみられる首や瞳の向きの微妙な変化からこの鳥の心の動きの片鱗をみるようでした。

ワークショップで初めてその作品を拝見させていただいて以来、私は伊藤さんの作品が大好きになってしまったのですが、その理由は、表現の美しさもさることながら、ひとつの画面の中に複数の時間が含まれるという表現が、写真という基本的には「ひとつの時間」を記録するものと相反する要素を持っているからだと思います。同時に、その作品は写真の特質のひとつである「複製可能」ということからも切り離されています。

伊藤さんの第1印象は「山水画のなかに登場する禅僧みたいな方」。伊藤さんにお会いするのは3年ぶりだったのですが、この方はなぜこんなに世俗の塵から縁遠い感じがするのかと、いつも思います。その作品から、写真を愛しつつもそれに対する静かなる反抗があるのではないかとふと思ったりするのですが、あるいは自然体による制作活動のなかで生まれたのが偶々このようなスタイルであったのかもしれません…結局のところは伊藤さんの姿を見ているうちそんなふうに邪推すること自体が恥ずかしくなってきまうのですが。
by paginademaiko | 2010-02-24 17:28 | アート
東京オペラシティーアートギャラリーで「「エレメント」構造デザイナー セシル・バルモンドの世界」を見たあとは、六本木へ移動。夕食をとってから森美術館に向かいました。

a0061947_17204258.jpg


こちらの美術館でで開催中の「医学と芸術展 生命と愛の未来を探る」はイギリス・ウェルカム財団のコレクションを中心に、身体、医療、生と愛といったテーマのもとに構成された展覧会。出品されるのは医学関係の歴史資料や医療器具、美術品については古美術から現代アートまで多種多様ですが、いずれも全体的に刺激が強いもの。

医療器具に関しては、手術用の道具や義足なども展示されていましたが、とりわけ特にその器具が生々しさを発しているのは人間の身体の大きさを直接的に感じさせるスケールのものでした。たとえば1910年頃に作られた、弧を描く金属製のフレームのなかに、角度を変えることができる寝台がついたレントゲン機や人間の首から下の部分がすっぽりと入る木箱…これはフイゴなどで内部の気圧を調整することにより呼吸を補助するもの、そして鳥かごのような構造をもち中に人間を入れてからフレームに電流を流すことによって病気を治療するという器具。これらの器具が生々しい、というよりもどこか怖い印象を与えるのは、人間がそれに閉じ込められることにより肉体が医療というものに無抵抗にゆだねられる状態を生み出すこと、あるいは目に見えないもの(放射線や気圧、電流)で体内のものが記録・操作されるという状況とその器具の骨董的外見との差異によるものかもしれません。

頭蓋骨も様々な場面で登場しました。この展覧会の目玉のひとつ、英国ロイヤルコレクション所蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチによる解剖図もそうですし、一方日本古美術からはレオナルドの科学的なまなざしとは対照的な、シニカルあるいはコミカルにそれを捉えた作品が参加…円山応挙の「波上白骨座禅図」、そして河鍋暁斎の「骸骨の茶の湯」「骸骨の生け花」等です。またアルヴィンン・ザクラの「どこからでもない議論」は紙やすりに頭蓋骨を、それが無くなるまでこすり続けたもの。灰色のまだら模様の帯が長さ8メートルほど続いています。フィクサチーフのようなもので剥落防止の加工処理がしてあるとは思うのですが、この作品に顔を近づけて見てみるのには勇気が要ります。そのそばにはこの作品の制作風景の記録映像もありました。かなり強烈な作品だな、とは思ったのですがしかしよく考えてみれば画材に人間の身体(死体)の一部を使用することは西洋では古くから行われているのですよね。日本の現代作家の作品では上出恵悟による、陶器によって頭蓋骨を模した「お菓子壷」。織田信長のエピソードを思い出しますが、現在は戦乱の世ではなく、せっかく頭の形をしているのですから中にはなにか脳に良い食べ物でも入れてみましょうかね。

身体とは距離を置いた作品として記憶に残ったのはスージー・フリーマン&リズ・リーによるドレス。ウェディングドレスを表現したと思われる白いドレスには、合計65000個のピルが織り込まれている。コメントは控えるけれども。

写真作品ではやはりヴァルター・シェルスの「ライフ・ビフォア・デス」が考えさせられます。同じ人を写した2枚組みのポートレートのシリーズ。一枚は生前の姿、もう一枚は死後の姿を記録したもの。両者の間には物質という点ではほとんど違いはないのだろうけれど、そこには「いのちがある」「いのちがない」絶対的な違いがある。

展示は、結構内容のキツイものがあるので(夕食をすこし食べすぎてしまったせいもあるし)自分では意識して「ほどほど」の気持ちでまわったのですが、それでもあっという間に1時間以上が経過していました。

森美術館ではいつも同フロアにあるギャラリーでMAM PROJECTという若手現代作家の作品を紹介するシリーズを開催しています。今回は世界中で「不平の合唱団」というプロジェクトを展開しているテレルヴォ・カルレイネンとオリヴァー・コフタ=カルレイネンが取り上げられていました

この二人のアーティストは世界各地で住民から集めた不平不満をひとつの曲に仕立て、合唱団がそれを歌うというプロジェクトを行っています。私がこの日見たのはシカゴ、シンガポール、ヘルシンキ、そして東京のプロジェクト。内容にはそれぞれのお国柄が出ていると感じますが、やはり不平不満は聞くのもあまり心地いいものでないから、できるだけ明るくそしてユーモアを交えて歌って欲しいと思いました。楽曲・詞ともにもっとも良かったのはシカゴ。東京のものはあまり…日本語であるだけに、その詞がダイレクトに耳に入りすぎてしまって、それが年金とか雇用問題とかときたものだからかもしれません。時事問題を入れるならAERAの中吊り広告とまではいかないまでも、ちょっと恥ずかしいくらいのオヤジギャグをさわやかに歌い上げるくらいがよかったかも。

ちなみに、街頭で歌うシカゴの市民合唱団の老若男女たちは「どうしてもセックスのことが頭から離れない~!」「そしていまもセックスのことを考えている~!」という内容の大合唱でフィニッシュしていました(しかも歌も上手)。

アメリカの出生率と日本のそれの差はこのあたりに在るということか。
by paginademaiko | 2010-02-24 17:20 | アート
東京オペラシティーアートギャラリーの展覧会は、ここのところ興味深いものが続いています。
また、こちらは夜19時まで開いていますし、コレクションによる展示スペースや若手作家を紹介する「project N」でも素敵な作品に出会えることが多いので、ここのところ私にとって自然と足が向く美術館のひとつとなっています。

寒い日が続いていた2月の中頃、仕事の無い日にに家でゴロゴロしてばかりいたわたくしはふとそんな自分に嫌気がさし、夕方5時近くになって家を出ました。

下車駅は初台。まずはワコウ・ワークス・オブ・アートで「ゲルハルト・リヒター"New Overpainted Photographs"」、ケンジタキギャラリー/東京で「田島秀彦展」を見て、それから東京オペラシティーアートギャラリーで開催中の「「エレメント」構造デザイナー セシル・バルモンドの世界」に向かいました。

構造エンジニアとは、建築家の構想を物理的に論理立てることによりその具現化へのサポートをする職業ですが、この展覧会では、この仕事に従事してきたセシル・バルモンド氏を数多くの実験的なアイディアを実現に導いてきた「構造デザイナー」として、その思想や仕事を紹介しています。

a0061947_13285329.jpg


スペースは大きく3つに分けられていました。

ギャラリー1に入ると、そこには幅1メートルほどのバナーが何十本も天井から吊り下げられ、迷路のような空間を生み出していました。それぞれのバナーには植物や大地といった自然の景物がプリントされ、それにバルモンド氏によるアイディアスケッチや活字によるテキスト等が重ねられています。そこからは、この人物が自然を愛し敬っているという姿勢を感じ取ることができました。

迷路のような引きの少ないスペースで我々がバナーにプリントされた画像やテキストを見るとき、我々はおのずとそれを「見上げる」ことになるのですが、これは「敬い」「崇拝」に通じる動作であり、展覧会冒頭に登場したこの作品というのは、身近にあるもの対して正視させ、再考のスイッチを入れるための仕掛けのようだと思いました。

狭い通路を進むとやがて行き止まりになりました。展示室に入る際に受けた指示通りにバナーを押し開けその隙間から先へと進みます。

バナーの森を抜けたところには、アクリル板の壁で作られた構造物「レシプロカル・グリッド」があり、それぞれの面に図形や数式がプリントされていました。手元のハンドブックを見てみると「かけ算」「フィボナッチ数列」「黄金分割」…数学に関する言葉を使った説明が並びます。つかみどころがなく滑り落ちそうになりそうなところで「ナンバー9は曼荼羅だ」というフレーズに何となく救われます。

ギャラリー2は靴を脱いでから進みます。三日月型が背合わせになったような、X字型のアルミプレート(ただし出品リストではH字型と表記されています)、チェーンで組み合わされた「H_edge」(ヘッジ)は巨大な立方体。内部にはいくつもの直方体の空洞があり鑑賞者はそこを通路として進むことができます。垂直に伸びるチェーンは無数にあれど柱となるような構造物がないこの作品は、どうやって自立しているのか不思議に思いますが、解説によればチェーンに張力を与えそこにアルミプレートの先端部がはめ込まれることによって生じるプレストレスによって自立が可能になっているとのこと。

このスペースでは、素数を素材としたパターンが壁や床に出現していました。そして「フラクタルな巨石」とされる白黒ふたつの四面体「Danzer」も設置されています。このスペースでは壁面に沿ってクッションが並べられ、鑑賞者がそこに座って作品や空間を味わうことを促していました。残念ながら私はフラクタル(次元分裂図形)という概念を理解するための十分なバックグラウンドを持ち合わせていませんでしたが、そのクッションに座ってみると、眼前の景色はまるで数学の世界をモノクロームに可視化した枯山水のように見えました。しばらくぼんやりとそれを眺めます…。

スペース3ではこれまでにバルモンド氏率いるデザイングループ、AGUが世界各地で手がけたプロジェクトがパネルや映像で紹介されていました。ただし、建築物の外観そのものについてはそれぞれの設計者の考えが強く反映されています。その形が実現するまでのプロセスにおいてバルモンド氏の思想がどのように作用しているのかを読み解くには、私にはあまりにも建築に関する知識が少ないのですが、それでもハンドブックにある次のようなテキストは何らかのヒントになりそうな気がしました。

「バルモンドは、建築における複合性や豊かさをよいと考えている。それはバロック的でもある」

こちらの美術館を訪れた際にはコレクションによる展示も毎回楽しみにしています。
今回は「わが山河 PartⅡ」というタイトルのもと、那智の滝をテーマにした作品数点をはじめ、山河を描いた作品が展示されていました。那智の滝を描いた作品に関しては、根津美術館所蔵の「那智瀧図」をもとに制作されたものも多く、例えば坂部隆芳氏による「那智の瀧の図」は実際には油彩作品でありながら、写真術が誕生して間もない頃の、たとえばタルボットが残した写真のような表現に興味を覚えました。

京都や滋賀の風景をやさしく表現した大野俊明氏の作品では、その画面を覆う水色や黄緑色がもうすぐやってくる季節を思わせました。春の到来はやはり嬉しいものです。

project Nでは熊谷直人さんの作品が紹介されていました。

数日間のまったり生活からはじけ出た勢いで、そのまま六本木へ。
目的地は森美術館。
by paginademaiko | 2010-02-24 13:28 | アート
先週は、上野駅で夜汽車を見送ること2回。
月曜日に「北斗星」そして金曜日に「北陸」を、です。

「北斗星」は電気機関車が近々新しいものに変わるそうです。
この寝台夜行には一度だけ乗ったことがあります。札幌から。札幌乗車のよいところは、北海道の景色を眺めながらディナーができるということ。でも、やはり上野駅13番ホームからの出発にも憧れます。

「北陸」は来月のダイヤ改正によって廃止されるということで。こちらには残念ながら乗ったことがありません。

月曜日は「北斗星」を見るため午後6時半頃、上野駅13番ホームへ。ホームに列車はまだありませんでしたが、乗客のほか鉄道少年たちや鉄ヲタさん達が既にちらほら。

(ちなみに、このホームにある「五つ星広場」は客をなめていると思います…暗いし寒いし清潔感もいまひとつだし…名前をつけるくらいならもう少しなんとかするべき)

列車がホームに入ってきたところで、最後部の写真を撮り、続いて先頭車両に向かって移動。こちらではヘッドマークをつけたEF81 98を狙う「撮り鉄」さんワールドが展開。自分もカメラを構えてみますが、ホームにある太い柱が電気機関車の中ほどに沿ってドカンと位置し、よい構図を作るのに苦心します。

a0061947_8224988.jpg


やがて発車の時刻‐午後7時3分。暗闇のなかへと向かっていく青い車体を見送ります。

そして金曜日は夜11時3分発の「北陸」を見に、やはり13番ホームへ。
ホームに近づくと、深夜にも関わらず、北斗星とは比べ物にならないくらいの鉄道ファンの数!整備のために警備員も特別に配置されているようでした。

a0061947_830662.jpg


「北陸」は車両を見るのも初めてでした。
先頭部分に向かうと、こちらはさらに大混雑で、写真を撮るのも一苦労です。
なんとか鉄ヲタさんたちの間から撮影しようとしますが、どうしても画面の端に彼らが横切る様子や警備員さんの姿が入ってしまう。写真に臨場感は出るけどできれば車体だけの写真も欲しい…。電車の写真を撮るのって難しいのですね。

a0061947_8302942.jpg


やがて発車時刻となり、ゆっくりと「北陸」は動き出しました。「ああ、音が良い」と思いました。乗客も特別な思いをもってこの夜行に乗っている人が多いとみえ、車内からホームの様子を撮影したり手を振ったりしています。この日は引退まであと3週間ほどありましたが、すでにこのような状態とは。最終日はいったいどのような状況になってしまうのでしょうか。

ところで、暗闇を走る電車の部分で私がいちばん好きなのは、テールライトです。前照灯の明るさ・強さと対照的な、すこし愁いを帯びたようなルビー色、そしてそれが遠ざかっていく様子は、見ているとなんだかせつなくなります。

ここで、このテールライトが描かれた絵画作品をひとつ。汽車を好んで描いた画家にポール・デルヴォーがいますが、この画家による「森」(1948年、埼玉県立近代美術館)ではこの画家独特の構図、つまり舞台のセットのように奥行きに乏しい空間と、それとは対照的に極端な遠近法を感じさせる風景をくみあわせるというスタイルを表現するのに、このテールライトが効果的に行われているように思います。この作品では、奥行きのない森の中に横たわる裸婦とともに、画面左端にテールライトを見せる汽車が描かれており、これは大部分において奥行きのなさを感じさせる画面において、ひとつの風穴のような役割を果たしているように感じられます。


「北陸」が出発したあと、13番線ホームに残された人々はぞろぞろとほかのホームへの移動を開始。「北陸」と同様に来月引退する夜行「能登」を撮りに行くためでしょう。
ですが、自分はこのあたりで帰宅。

わたくし、実家の門限が「夜10時」(20代前半で!)だったため、この13番線から発車する、8時台最後の高崎線がデッドラインでした。何度ここに向かって走ったことか。ここでお別れのハグをしたことか。
というわけで、このホームを遅い時間にうろついていると、すこし罪悪感を覚えてしまいます。
マッチのもえさしを見ると、なぜか「終わってしまった恋」というものを想起します。
それも不完全燃焼の。

国立新美術館では「メディア芸術祭」とともに「ルノワール展」も見ました。この展覧会では国内外から80点あまりの作品が集められ、同時に最新の光学調査の成果などが紹介されています。ルノワールの大規模な展覧会を見るのは記憶にあるかぎり、初めてです。

ルノワールの作品はきらいではありませんが、多くの画面を支配するその幸福感にすこし食傷気味になってしまうことも確かです。

そんななか、実物を見ることによってその謎めきが心の中に残された作品がありました。「ブージヴァルのダンス」(ボストン美術館)です。これは縦長の画面にダンスを踊る一組の男女を描いたもので、女性のモデルはシュザンヌ・ヴァラドン。制作年は1883年ですから、彼女がのちのモーリス・ユトリロとなる男児を出産(父親は不明)した年に描かれた作品ということになります。私が気になったのはその足元。そこにはマッチのもえさしが3、4本、そして打ち棄てられ、ほつれたスミレのブーケが落ちているのです

なんと意味ありげではありませんか。不自然なアイテムによって寓意がちりばめられたファン・エイクの「アルノルフィニ夫妻の肖像」を思い出しました。

マッチのもえさしは、やはり過去の恋の数なのでしょうか、それとも男性の数でしょうか…しかしこの女性に関しては、本数が少なすぎるようにも思えます。ちなみにスミレの花言葉は、西洋ではその色が聖母のマントを思わせることから「貞節・忠実・真実」といったものがあるようです。


今回の展覧会でそのほかに気づいたことは「構図」です。ルノワールの作品というのは、特に人物画主役の作品では手狭な感じがするものが多いと思いました。身体や衣服の一部が画面の端に接近しすぎているのです(かといって大胆にトリミングすることはあまりしない)。この画家は画面の中で計算をすることがあまり得意でなかったように思います。例えばそれは、ルノワールがモネともにカンヴァスを並べて描いた「ラ・グルヌイエール」(1969年)を見てみるとそれは一層分かりやすいような気がします。モネが大きく断ち切られたボートによって鑑賞者の視線を水面へと誘導する巧みな構図を見せているのに対し、ルノワールの作品ではおそらく興味の対象は行楽する人々にあると思うのですが、鑑賞者の意識を強くそちらに向けさせるような構成にはなっていません。

「ルノワール展」ののち、ふたたびメディア芸術祭の会場を訪れ、そしてそろそろ次の目的地へ向かおうとした午後2時頃…館内放送でまもなく宮澤壯佳氏(元『美術手帖』編集長)による講演会が始まることを知りその会場へ向かいました。

演題は「シリーズ 美術雑誌と戦後美術-創り手たちの証言 第1回 激動と転換の60年代末」。宮澤氏が美術出版社に入ってから、編集長代理と編集長をつとめた60年代後半の『美術手帖』制作現場をめぐる様々なエピソードが紹介されました。とりわけ興味深かったのは、「文化的反乱」(氾濫?)の時代である60年代において宮澤氏が当時の社会に対して何を発信すべきかを考えていたかという部分で、例えば1968年にLSDと芸術をめぐる特集を3号続けて組んだことはその極端な例だと思いました。なおこの特集ののち編集部には警視庁がやってきて、計1500冊を購入していったとか。

a0061947_12423439.jpg


この日はその後、地下鉄乃木坂駅から新橋に向かい旧新橋停車場 鉄道歴史展示室で「現代絵画の展望 12人の地平線」、そして銀座8丁目のG池田美術で「藤田修展」をたずねました。
by paginademaiko | 2010-02-17 12:42 | アート
先週末、国立国際美術館で開催されていた「文化庁メディア芸術祭」に行ってきました。

2006年以来の訪問。前回の訪問時はまだ東京都写真美術館を会場としていました。その頃にはオタクやサブカル好きのような人が多く来場していた印象がありましたが、今回はむしろそのような感じの人はあまり見受けず(ゴスロリやコスプレの人も数名見かけましたが)、客層はもう少し広がっている感じ、無料かつこの日は土曜日ということもあり家族連れも見かけました。

a0061947_12345526.jpg


会場に入っていきなり、エンターテイメント部門のミュージックビデオ「電気グルーヴ/ Fake It!」には大きな衝撃を受けました。作者は田中秀幸さん。

これは電気グルーヴの音楽を背景に、飛び込み選手が次々とプールに飛び込む様子をシンプルなカメラワークで捉える、というかなりアナログな映像作品です。画面全体の色合いは灰がかった寒色が基調になっています。この作品のポイントは「アノニマス」だと私は思いました。選手達(全部で100人くらいいるのでしょうか)はおそろいの黒無地の小さなスイムパンツとキャップのみを身に着け、一列で小走りしながらプールサイドに登場します。なおその際、彼らの顔が至近で映る際には目元に黒いバーが合成され、個人が特定できないようになります。彼らはオートメーション化された工場で量産される製品のように飛び込み台の上にまで駆け上がりかなり早いピッチで次々とプールに飛び込んでゆきます。彼らに許されている自由といえば飛び込むときの体勢のみのようでそこで瞬間的に個体差の発露を見せているようでした。しかし飛び込んだ後は水中における上昇からプールサイドに上がるまでの一連の動きのなかで再び列をなすようになり、プールサイドでは先ほどと同じように一列になって再び飛び込み台に向かいます。この映像には中毒作用があるのか、私はその場で3回ほど見たのち、この日のうちに何度も作品の前に足を運んでしまいました。この作品には、もしかしたらパチンコの球の動き(と、パチンコ屋さんでよく流れているトランス系の音楽)が脳に与える効果に近いものがあるかもしれないと思います。

その、パチンコの球を思わせる金属球が使用されている作品がアート部門にありました。作曲家・川瀬浩介さんと日本精工株式会社のコラボによる「BEARINGS GLOCKEN」という作品です。これは機械から放出されたベアリングの球が金属のバーの上をバウンドすることにより鉄琴のような音を生み出すという作品です。ベアリングの球というのはかぎりなく真球に近いことから、同じ条件を与えれば同じ動きをするということで、それを利用したのがこの楽器だそうです(逆にパチンコの球は実際にはいびつであるため、それが球ごとに不規則な動きを生み出しギャンブル性の一助となるそうです)。音色や球の動きは非常に美しいのですが、マシーンの姿についてはあともう一歩かな。これは2号機なので、3号機に期待。

アート部門で特に注目したのは和田永さんによるパフォーマンス「Braum Tube Jazz Band」。文字通りブラウン管を使った作品です。ブラウン管の入力端子のうち「画像」のところに「音声」信号を送ると、画面にはその信号が模様となって出るそうなのですが、この作品はその画像を再び音に還元するという方法で音楽を作るとのこと。ブラウン管とアンプをつなぐのはアーティスト自身の身体で、すなわち並べられたブラウン管テレビの画面をドラムのように叩くことで音楽を奏でることが出来るというわけです。和田さんはまるで平成の平賀源内のようだと思いました。これまで人間が受動的にしか接してこなかったテレビというメディアを、今度はこちらから叩き返してやろう、という思惑もあるとか。

アニメーション部門では、昨秋に東京都写真美術館で見た「エレミの恋」を再び見ることができました。今回は会場のほかの作品の音で、セリフやtico moonの繊細な音楽が聞き取りづらかったけれども、最終的にはまた泣かされてしまいました。


この日は、お昼時に一旦美術館の外にでました。

新美術館を訪れるときは、そこから徒歩1分のところにあるShonandai MY Gallery に伺うようにしています。この日は高木彩さんの作品に興味を覚えました。植物をテーマにした高木さんの作品は、ぼやっとした画風が今はやりといえば今はやりなのですが、モチーフそのものがもつ気質-たとえば果実なら色の明瞭さや栄養が凝縮されている感じ、あるいは植物の蔓だったら繁茂するしたたかさが率直に表現されているところに好感が持てましたし、筆致とは対照的にいさぎよさを見せる構図-たとえば画面左上から主役が姿を見せる構図や、対角線を隔てて図と地がすみわけをしている構図など-も、日本の伝統的な絵画を思わせて、気に入りました。まだ若い作家さんのようですが、今後も作品に注目したいと思いました。

昼食は新美術館の正門を出て左数軒目にある「胡同四合坊」を利用しました。3種類からメインを選ぶことができるランチセットは1000円。一人ランチに4桁とは少し心ぐるしいところですが、実際にはメインはかなりの量、副菜数種に小龍包まで付いてきてやっとのことで完食しました。さすがに胃の調子が心配になったので、これで食後に中国茶でも出れば最高だと思いました(お茶を所望したところ有料といわれ、結局注文しなかったお客さんがまわりに何組がいました…)。
by paginademaiko | 2010-02-17 12:33 | アート
先週、鎌倉国宝館で「肉筆浮世絵の美 -氏家浮世絵コレクション- 」を見てきました。
閉館間際の駆け込みであまりゆっくり見ることができなかったのですが、興味深い作品と出会いましたので、少しだけ。

その作品とは、喜多川歌麿の「かくれんぼ図」。縦長の画面のなかには人物が描かれています。ひとりは美人、ひとりは子ども。二人の間はついたてで隔てられており、子どもは目隠しをしています。「美人」と「目隠しをした子ども」とは…まるでヴィーナスとクピドのような組み合わせです。

それはさておき…。ついたてには白梅とおぼしき花が描かれていましたが、これは歌麿なりの巧みなエロチシズムの誘発だと思いました。つまり、「視覚」の遮りを意味する「目隠し」を描きながら、一方でそこに「白梅」を配することで、この絵を鑑賞するものの感覚を、視覚主導から嗅覚主導にシフトさせているのではないかと。さらに、この子どもはついたてに描かれた「絵の白梅」ではなくその向こうにある美人のおしろいや香などから発せられる匂いをヒントにその胸に飛び込んでいくことが想像されるのですが、そこで鑑賞者は「触覚」というものを疑似体験することに至るのでは…と思うわけです。
by paginademaiko | 2010-02-17 12:17 | アート

三島の市街地には古美術を扱う「佐野美術館」があります。

この美術館では物語絵の展覧会が開催中とのことで、「IZU PHOTO MUSEUM」訪問ののち訪れることにしました。

こちらは三島駅から徒歩で行くこともできますが、美術館ホームページによると伊豆箱根鉄道で三島からふた駅の「三島田町」からのアクセスが便利だとのこと。つきましては、伊豆箱根鉄道に初乗車。

a0061947_2234642.jpg


車体は青色。行き先表示の「修善寺」に旅情を感じますが、それもつかの間、車内は学生服で超満員。自分がこの路線を使う学生だったらあこがれの先輩に密着するのにこの混雑ぶりを利用できるなあ、なんてよこしまな空想をしてしまう。現実には自転車通学だった人の悲しい「さが」でしょうかね。

三島田町駅から約3分。美術館は住宅街の中にありました。
建物は、社寺の宝物館などでよく見かけるようなデザイン。開館は1966年だそうです。

a0061947_2241154.jpg


「物語絵の世界~静岡県立美術館&佐野美術館コレクションによる」は、歴史、故事、文学を主題とした屏風、掛幅、そして能面などから構成される展覧会です。

展示は大型の屏風絵から始まりました。狩野探信「井出玉川・佐野渡図屏風」、それに「曽我物語」が続きます。曽我物語についてはひとつの画面のなかに様々な場面が描かれていることを説明するパネルが付いていて非常に分かりやすかったです。

明治時代の作品もありました。「川中島合戦図屏風」は右隻に武田信玄、左隻に上杉謙信を表した作品。金地の背景に人物のみが表現されること、画面における人体のサイズは、現代美術作家で例えるなら天明屋尚さんの作品に近いように思えました。作者名をみると「小林清親」とありました。版画家として知られる清親の作品と知り少し驚きましたが、そう思って見てみると、動きのある人物表現にはその木版作品と共通するものがあるように感じます。

なお、この展覧会で最も印象に残った作品は、山本探川の「宇津の山図屏風」(18世紀中葉)です。山本家は狩野派の系譜に属する家であったようですが、その5代目である探川という絵師についてはあまり詳しく知られていないようです(おそらく最も知名度が高いのは3代目の山本素軒でしょう)。この作品は二曲一隻の屏風で、緑の山々が折り重なる様子には琳派の影響が見られますが、しかし、その間隔の詰まり方からは琳派特有の「風通しのよい感じ」からの距離を感じます。こんもりとした、「高さ」を強調する山の形状については、もう少し前の時代の、たとえば「日月山水図屏風」(金剛寺、15世紀後半~16世紀前半)あたりに近い感じもします。


会場終盤では、中国の物語をテーマとした作品が展示されていました。中国の逸話を描いた作品はひとくせもふたくせもありそうなおじさんが主人公になっているもの多いので、個人的にはどちらかというと苦手なのですが(今回も「南泉斬猫図」という猫好きには正視できないような作品がありました)、一方で、こちらにはつい笑ってしまうような作品がいくつかありました。ひとつは楫取魚彦の「酒泉猩々図」、もうひとつは海北友松の「禅宗祖師・散聖図」。前者は顔を真っ赤にしてお酒の泉に浸かる猩々を、後者は12人の禅僧を描いた作品。特に後者はそれぞれのアトリビュートがコミカルに表現されていて、例えばそれは大きな海老を持っているもの、袖口から犬の顔が覗いているものなどがありました。そしてなによりも顔がピンメンにそっくり。ピンメンとは池田爆発郎氏によるアニメの主人公で、地球に出稼ぎに来た宇宙人たちのこと。海北友松の描く禅僧もアニメにしたら面白い作品になりそう…かもしれない。

a0061947_2244342.jpg

by paginademaiko | 2010-02-16 22:04 | アート
この日は午前中のうちにMOA美術館を訪れ、その後、熱海駅から西へふたつ。三島駅で下車しまして、ここからバスで「クレマチスの丘」に向かいました。こちらにはもともと幾つかの美術館がありますが、昨年の秋には新たにIZU PHOTO MUSEUM がオープンしています。

この美術館の建物や庭は現代美術作家・杉本博司氏による設計であり、現在、開館記念展として同氏の作品による「杉本博司―光の自然(じねん)」が開催されています。

a0061947_2159183.jpg


展示室は長方形の展示室が一枚の壁によってさらに縦長に区切られるプランです。そして、その奥に設けられた折り返し地点のスペースでは大きな窓から中庭が望めるようになっています。

最初の展示室では2つの作品が展示されていました。ひとつは電流を印画紙に直接焼き付けた「放電日月山水図」、そしてもうひとつは「雷神像」…キャプションには制作年代が「鎌倉時代」とありますので、こちらは杉本氏の作品として出品されているのではないようです。

もう一方の展示室では、タルボットが残した紙ネガをつかって再び像を出現させるというシリーズ「光子的素描:フォトジェニック・ドローイング」が展示されていました。暗い画面のなかに浮かぶ人や植物、レースなどのイメージはどれもうっすらとして捉え難い。イメージ自体は937×749㎜と小さくはないのですが、かえって画面には鑑賞者自身や周囲のものが反映してすこし見づらい気がしました。目がしばしばするまで見つめてみましたが、結局その不確かさはその奥にある時間の遠さとして感じられる結果になりました。

受付に隣接するミュージアムショップでは写真関係ものを中心に古書・新書がそろえてありました。めずらしい書籍などもあり、ちょっとした旅の開放感からつい高価な本を買ってしまいそう。要警戒区域です。


その後、徒歩15分ほどのところにあるベルナール・ビュフェ美術館へ向かいました。
美術館は、この数日後に目黒区美術館で「ベルナール・ビュフェ展」がオープンするということもあってか、少しひっそりとした感じでした。

a0061947_2204940.jpg


ビュフェは第2次世界大戦後まもなく、20歳頃に画家としての名声を得ていますが、その後の長い人生においては、その作品の評価は必ずしも好意的なものばかりではありませんでした。世の評価はさておくとしても、しかし、この画家の初期から晩年に至るまでの作品を展観することができるこの美術館に来て見ると、やはり彼の作品はその初期のわずかな時間、つまり1940年代の後半から50年代の初頭にかけて制作されたものがもっとも優れていたと感じざるを得ません。線の細さ、抑えられた彩度、そして均衡と不均衡の間にある構図が彼の絵画の魅力だと、私は思うからです。
by paginademaiko | 2010-02-16 22:00 | アート
←menu